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2012年3月29日 (木)

ありがとうございました

 数日前、一人の青年が 北海道へ旅立ちました。
彼は 近くの森の保育園で ボランティアで 保育士さんをしていました。
この彼には 私たち とってもお世話になっていたのに…と思うと
 「ありがとう。」のお礼もしないまま…。

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 以前にも書きましたが うちの前の道をまっすぐ下っていくと
ペンションに隣接された 小さな保育園があります。
そこは 公立の保育園や幼稚園とは全く 違います。
森の中で お散歩したり 遊んだり 野菜を作ったり 食事も焚き火で炊飯したりしています。
ほとんどの保育時間は 外で過ごすのです。
雨の日も、雪の日も オープンテラスのような屋根付きの 小屋で 十数名の 子供たちが遊んでいます。

 「すごいなぁ~。 子供たちも、先生も お母さんたちも たくましい  」

と思って 正直 見ていました。
自分の子供たちは 同じような環境で暮らしているので ごく普通の保育園に ごく普通に通わせただろうなぁ~と 思いながら。
でも こんな 今や、自然と遊ぶ保育園は 各地に広まっていますよね。


 そんな保育園に アルツハイマーで徘徊するようになった義母が ふらふらと たどり着いたのがご縁で しばしばお世話になり始めました。
始めは ペンションで 嘘八百。 涙涙の「大芝居」をやってくれました。
その時から この彼が 「おばあちゃん」にとても親切にしてくださいました。


 「アルツハイマー」という病気が どれだけたくさんの人を振り回すのか…。
あの頃の私は 毎日行方不明になってしまう義母を探してフラフラでした。
体力的にも、精神的にもです。

 幸いなことにというと 保育園の方には 申し訳なかったのですが
義母は 徘徊をすると ここに 引っかかってくれる事が多くなり 子供たちも保育士さんも
 「遊びに来てくれてもいいですよ。」と 言ってくださいました。

 そして 携帯に「おばあちゃんが 見えていますよ。」と
電話をかけてくれたり 家まで連れて帰ってくれたりもしてくださいました。
本当に 当時はそんな日が 延々と続いていたのです。


 そんなに 好意的な保育園の皆さんだったんですが、私は義母が保育園に行くことが
とても不安でした。

何故なら 義母が 保育園に向かって歩いて行ってしまう時は 病気の症状が最悪の時です。
病気のスイッチが入っている時は 家族が何を言っても どんなに注意を払ってもほんのちょっとした瞬間に飛び出してしまうのでした。
その上、私が心配していたのは その時の記憶がないという点でした。
基本的には危険がない人だろうとは 思っていましたが 義母といっても初めての同居でしたから 性格や好みや日頃の行動などが分からず やることなすこと「異常」に見えていました。 
例えば 昨日一緒に遊んでくれた子供たちの顔がわかりません。
4・5歳の子供でも「おばあちゃ~ん。」と すれ違いに声を掛けてくれますが 義母には一緒に遊んだ記憶がないのです。
当然のように全く 知らん顔しています。
普通の人ならば 「だれだったかしら?」と 忘れてしまっていても お愛想の笑顔で挨拶はかわすでしょう?
そういう時は笑いません。
何かがスコーンと抜け落ちているそんな 違和感が 義母を見ていて 感じていました。
何かが起きなければ 「遊びにきてね。」と 寛大なお母さんたちでしたが 自分の子供が怪我でもしてしまったら 記憶がないということで許されるか といえば 絶対に許してくれるはずはありません。
自分もそんなお母さん的気持ちがわかるだけに 介護施設のディサービスに出すときのような気楽さでは 徘徊の義母を 笑いながら預けることができませんでした。

 そうはいっても、病気状態の目のつり上がった義母は 遊びに行くという意識とは別の次元で 保育園にたどり着いてしまうのでした。
 ここでも 助けてくれたのは 彼でした。
とても 優しい青年でした。

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 ケアマネージャーさんとの 面談の時にも 訪ねて来てくれました。
 
  その義母も 施設に入所できました。
義母の記憶の中には 彼はもうすっかり消えてしまっているでしょう。
家族として暮らしていたはずの 私でさえ消えかかっているのですから。



 そんな彼が 「保育園を辞める」という話を聞いたのは 近所の若いママさんからでした。
「北海道に行くらしい」という話は ダンナが偶然 穂高駅前の「バックカントリー」で 本人に出会って 話を聞いたと言っていました。


 そして、またまた まったくの偶然。
恒例の朝のリハビリ散歩に ダンナとメグタと出かけました。
コースは 毎日 メグタの気分で 変わります。
その日は 保育園を通り抜けペンションの方向に歩いていました。

すると、黒い車に見たことのある顔が…。
北海道にこれから向かうという 出発のタイミングでした。
ペンションの仲間に見送られて 今まさに車に 乗り込む時だったのです。
なんていう偶然!!

 「ありがとう ございました。」
 「お世話になりました。」

 明るく希望に満ちた笑顔が返ってきました。
よかった!
 「ありがとう」 
この大切な一言が 言えて 本当にラッキーでした。
北海道に行っても その優しさで たくさんの人に出会ってくださいね。
 素敵な未来で ありますように…。

 「川原さん、おばあちゃんは あなたに助けてもらったと 思っています。
本当に ありがとうございました。」

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介護っぽい話」カテゴリの記事

コメント

>うっちゃん様

 今日はとてもいいお話を聞かせてくださいました。
私は、多分前にもお話したかとはおもいますけれど
6年半前まで足掛け7年実母の介護をしていました
から高齢者の介護については色々今でも見聞きする
度、気にかかっています。川原さん、ですか、保育
士さん、どういう方なのでしょう。保育とか、など
「福祉」に天性的ななにかをお持ちなのでしょう。

 幼稚園や保育園と老人福祉施設との交流はとても
よい結果を双方にもたらす、ということはよく聞かれ
ることです。貴方の近所の保育園もきっとそういう事
に気を配られているのでしょうね。普通の、いわば、
職業的にやっている保育園とは一味もふた味も違う
ようですから。
 お義母様もきっとそういうところに惹かれて、よく
「訪問」されたのではないでしょうか。
 
 いずれにしても、ちゃんと、十分に、お別れの挨拶
できてよかったですね。

(それから、お義母様お元気ですか?)

投稿: j.i | 2012年3月30日 (金) 02時10分

JIさま。 コメントありがとうございます。

義母は とっても元気そうです。
精神的には困ったこともなくゆったりと暮らしています。
記憶力は 少しづつ消えているみたいです。
ダンナは相変わらず 記憶から意識的に義母を消去していますが
義母はもう「帰りたい」という意識はないらしく
私に会っても「よく来てくれました」といいます。
それに「気を付けてお帰りください」とも。
分かっていないということです。
義母の世界は 今 どこをさ迷っているのでしょう?
こちらが 悲しくなります。

投稿: うっちゃん | 2012年3月30日 (金) 09時54分

>うっちゃん様

 お義母さま、お元気で精神的にも困ったこともなく、ゆったりと・・って、とてもいいことではないでしょうか。
 私の母の介護、7年のうち2年ほどは、次妹がみていました。その間、月2~3回見舞いに行っていましたが、その都度母は私のところへ帰りたい・・と言っていました。
 (細かいことは略しますが)私も妹にいつでも受け入れるから、早く私のところに帰すように言い、何時帰ってきてもいいように準備していたら、ある日ほんとに突然送って来ました。何があったかは知りませんが・・・
 そして20日ほどして母は静かに逝きました。
 帰ってきたとき「もうどこにも行かなくていいからね」と私が言ったら母が嬉しそうにしていたことが忘れられません。もし母が妹の所にいたまま亡くなっていたら妹たちと私のあいだに大きいしこりが残ったでしょう。妹の介護の仕方が悪かった、というのではないのですが(何しろ母の介護のために介護福祉士の資格をとったりしたのですから)
 私が見舞いに行っているうちに母は私に妹を「この方はたいへんよくしてくださるの・・」と紹介?してくれたりするようになったのは、妹が自分の実の子、ということが分からなくなってしまったのか・・何かなのでしょう。
 妹のうち・と言うことは妹の夫の・つまり母にとっては「赤の他人」のところに厄介になっているという意識だったのかも知れません。
 もしかしたらお義母さまは「よいおちつき所」を得られたのかもしれませんね。

投稿: j.i | 2012年3月31日 (土) 02時34分

JIさま。 ありがとうございます。

私も そう考えています。
義母にとっては 我が家も施設も全く初めての
知らない場所だったわけで
どちらも大きなストレスだったことに違いありません。
特に 私や没関係中の息子には お世話になる(という意識はなくても)
という現実は口に出さなくても 
親子とも 精神的の大きな摩擦が起こっていたことは確かです。

施設の入所は ダンナがこちらに連れて来る時から
考えていました。
けれども今の時代、そう簡単に自分たちの思い通りには
いきませんよね。
希望者の数が溢れていて200番待ち…。
そんなで始まった同居では
一緒に暮らしたことのない息子と母親のそっくりなこと。
何処がって言うと キレるタイミングです。
親子が同時に怒り出して 喧嘩になります。
どっちが病気かわからないくらいで 我慢するダンナは辛そうですし
キレた義母は そのまま徘徊状態で飛び出して
有りもしないことを涙涙で 語るんです。
ご近所で頭を下げて連れ帰るときは こっちの涙がでました。
ケアマネージャーさんから急に入所のオファーが来たとき 
黙って聞いていた義母が自分で行くと言って…
ビックリするほどでした。
でも いざ入所の日はわかるのか ソワソワしていました。
でも、本当にお迎えの車が来たら
スタスタ一人で歩いて車に乗って 
私たちに振り返ることもなく あっけらかんと行ってしまいました。

それで現在に至るです。

 身元引受人がいないと行政では施設にもはいれませんよね。
いろんな手続きはこちらに回ってきますが
そういう日常的な雑用がもう出来る状態ではありませんのでしかたないです。
それがなければ 義母は安穏と暮らせますよね。
毎月の支払いに追われる毎日は心穏やかではいられなかったでしょうし。
家にいる時は 郵便屋さん、電話、周囲の人がくるたびにスイッチになっていたみたいです。

 今は 必要なときに手を貸してくれる優しいヘルパーさんや
規則正しい毎日で表情も本当に穏やかです。
あのつり上がったキツい目をして掴みかかってきた人と同じ人物とは思えません。
いいおばあちゃんに見えますし、馴染んでいます。

私は義母のような人生を送りたいとは…思いませんけど。

投稿: うっちゃん | 2012年3月31日 (土) 10時11分

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