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2012年7月 5日 (木)

久しぶり …の (´・ω・`)「

 安曇野は一日おきに 晴れたり 大雨が降ったり しています。
九州の大雨は 停滞前線がもう何日間 止まったままなんでしょう。
テレビを見ながら「大変…。」と 思ってあげることしかできませんが…

 私の中の「梅雨」のイメージは シトシト穏やかな雨降りが 一ヶ月も続く
そんな感じでした。
 「梅雨」は 通学や通勤には鬱陶しい季節ですが 本来は 野菜や稲に大きな恵みの雨だったはず。
でも、この頃の雨の降り方は 集中豪雨で 大地を潤すどころか 山を壊して土砂崩れ、川は 氾濫して大洪水です。
こうなってしまうと 「ご注意下さい。」なんてお天気お姉さんや 予報士さんが言ってくれても たた 安全そうな場所に避難することしか出来ませんよね。
雨も風も地震も どれも起こらないとは言い切れないので 怖いですよね。


Img_8048_2

 昨日の 有明山。 雲が立ち込めています。 
一日雨だったけれど ほんの一瞬雨が上がったのよ。
 こんな綺麗な景色の田んぼの中に お義母さんの入所している施設があります。

 昨日は久しぶりに 施設に顔を出しました。
ここのケアマネージャーさんも介護士さんも 皆さん明るくて 居やすい環境だと思っています。

けれど この所 私の足はここからずっと遠のいているんです。
行くということが なんだか重たい…んです。

 この頃の義母はもう 私のことは全くわかりません。
足の手術の為に 施設に洗濯物を全面的にお願いしてからは 私は入院、リハビリの毎日。
施設の方でも、 「冬の間はインフルエンザ予防のため できる限り家族の面会はご遠慮下さい」という期間も 重なって
面会もほとんどままならなかったので 当然といってもいいくらい自然に 記憶から消えてしまったようです。

 前回、冬の着替えを届けた時に 部屋には義母はいませんでした。
この施設では 「洗濯物やいつも着ている服などを持ってきた時は 家族の方が片付けてくださるとありがたいです。」と 入所当時から 言われていました。
なので 当然 私は義母のベッドの隣に据え付けてある 引き出しに 「タオル」とか「下着」とかのシールが貼ってある引き出しに 片付けて帰るのです。

その時 義母が帰ってきました。

タンスの引き出しを開けていたからでしょうか?
すごく怪訝な顔をして 私を睨みつけました。
ここに入所させてからは こういう険しい顔を見たことはありませんでした。

 「どちら様? 病院の人しか勝手にタンスを開けてはいけないんですよ。」
 「お義母さんの着替えを持ってきたんですよ。」
 「私はね、そんな服は知りません。」
ときた wwwww


 それはそうでしょう。 
だって それは私がこの間 買ってタンスにしまっておいた服なんだから。
引越しの時 義母の衣類の中で こっちでも使えそうな物を選んで ダンボール数箱分くらい持ち込んできました。
着ていた物を見てみると 義母の好みは ほとんどウール系の派手めの物のようでした。

 でも、入所するにあたって 施設の入所案内には「衣類は洗濯機で水洗いできるシンプルな物」と 言われました。
クリーニングでしか洗えそうもない服ばかりが タンスに並んでいましたから、ほかの箱を探してみても その手の服は ほとんど持っていませんでした。
コットンのTシャツ、ブラウス、トレーナーなど子供達の着たまだ新し目の服や 近くのジャスコなどで 必要な枚数分だけ パジャマやズボンなどを 大急ぎで揃えました。

大人一人分の衣服を揃えるのだって結構な費用が掛かります。
お金の話は あまり言いたくはないのですが
義母の年金はそっくりそのまま 入所の費用として 施設に行ってしまいます。
借金まみれだった義母の元から そんな費用がでてくるはずもありません。

 贅沢三昧で購入していた義母の好みの服なんて もうこれからは一生買ってあげることは 我が家の家計では絶対無理です。
引越しのために 私は自分のなけなしの貯金をはたいてしまいました。
あの時はそれしか方法がなかったとしても もう絶対に回収できないことが分かった今は「損した、馬鹿を見た」という気分は 今でも拭えません。
~と思っても もう後の祭り。
義母からは 年金が唯一の財産です。
甘い言葉に騙されていたのかもしれませんが 着物や贅沢な服、宝石類に どんどんお金をつぎ込んで 幸せな気分を味わったのは 自分の責任です。
分不相応のお買い物をして お金だけでなく 宝石類も売り飛ばして 全財産を無くしてしまった上に 生命保険すら 解約してしまっていたので 
もし義母が 亡くなっても 面倒を見ている私達には 多分何にも入ってはきません。
お葬式の費用まで全て私たちが持ち出しです。
施設に入っても 未払いだという義母への請求書は こちらにまだ届くんです。

 お金も時間も精神的にも やりくりして 重い気分を振り払って 訪ねて見たら これでした。
あ~あ。
本当にやりきれない。
でも、ダンナには 言わないでおきました。
だって、あの人は「お義母さん」の話をするだけで 気分を悪くします。
また 血管がぶち切れそうに 怒り出すし。
こういう堂々巡りの未消化のやりきれなさや 訳の分からない怒りを誰に話しても 無駄な気がするからです。

 あんまり悲しい気分だったので 前回は介護っぽい話の記事は 書かずにおいたのです。
私は なんのために頑張ってるのよ?とか この人 なんなのよ!とか。

Img_8055   

 今回は 市役所から届いた施設に提出する書類があったので どうしても顔を出さなくてはなりません。
ついでに 靴下やバスタオル、フェイスタオル数枚と 夏用のTシャツを大きな紙袋に入れて(本当は 6月の中旬から用意してあったんですが グズグズしていたら 行きたくなくなっちゃって)持っていきました。

 「ご無沙汰してしまって すみません。」
 「いいんですよ。 いついらしてくれても大丈夫ですよ。」と 事務所では ケアマネージャーさんが 事情は分かっているわよ的な 和かな笑顔で迎えてくれました。
なぜか ホッとするのです。

 2階の入所者用の階へエレベーターで向かいます。

 静かな空間が 広がっています。
いつでも 何曜日の何時にでかけても 自由時間の時は 介護士さんの働いている音がするだけです。
今回も 部屋のタンスの中で何か不足しているものがないかと 開けてみると
なぜか引き出しの中は ほとんど空っぽになっていました。

 「?? どうしちゃったのかしら? 前の服を気に入らなかったから捨てちゃったとか?」

なんて思いながら 介護ステーションで介護士さんに伺うと

 「今は こちらに置いてありますから」
と 大部屋のタンスがいっぱい並んでいるコーナーに連れていってくれました。
義母は ここでも自分で自立させるというのは もう無理になったのかもしれないです。
家にいた時は 毎日朝から晩まで一日中 服を出したりたたんだりして その内どこかになくしてしまうという行為を繰り返していました。
当時タンスの中はぐしゃぐしゃで 手を付けられない状態だったのに 自分でやったことなのに いつも
 「ない、ない。」と 怒っていました。
気に入らない服は ハサミで切ってしまったり ゴミ箱に捨ててしまったりしたこともあったんです。
 
 まさか、あんな風になってるって事はないよね~?
だとしたら (介護士さんは 大変だろうな。)と、思ったけれど 聞かないでおきました。

 「今度こられる時は 薄手のズボンを2本くらいお願いできますか?」
と ついでに待ってましたとばかりに 担当の介護士さんに言われました。
「はい。わかりました。」
介護士さんに愚痴ってもしょうがないもんね。


今度は ズボンですか~ぁ。
しゃ~ない 
お義母さんがこの間 「そんなの知らない、嫌いだ、着ない。」と、騒いだ ユニクロか 
もっとお買い得の g.u.(ジーユー)の服が 施設には一番いいと私は思っています。
調べて格安品でも買うか~。


Img_8068

 ホールにも 部屋にも 昨日は義母は見当たりませんでした。
入浴の時間だったのでしょうか…。
会って 「誰、この人? ( ゚皿゚)キーッ!!」って 顔をされると
また 当分落ち込んじゃうから 顔を見ないでよかった …そんな気分です。

 だけど、施設から帰る時は いつも気持ちが重たい。
別になにか代償を欲しいわけじゃないけれど 家にいた時でも この施設にいる時でも
結局はなんにも変わらないんだなって事が わかってきました。
どうして この人が義母なんだろう?
やっぱり 損したな~って 思ってしまう自分も情けないし。


 

 

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介護っぽい話」カテゴリの記事

コメント

本当にお疲れさまです。
うっちゃんは、もしこの日記、明日が最終章だったら何を書きたいですか?
ここに綴られている、数々の毎日の出来事、その一つ一つは、
冬の静寂(しじま)にちりばめられて光輝いている星と同じものだと思います。
それぞれは小さい光ですが、たくさん集まって寒い真っ暗な夜空を美しく飾っていきます。
何気ない毎日の小さな行動でも、積み重なって、それは立派にうっちゃんの価値を作っているんです。
それがここに書き記されています。
名前も知らない星、でも、いつも小さな光を灯してくれるから、その星にお祈りする誰かがきっといます。
一つ一つの光は小さいけれど、寂しい夜いつもそこにいてくれる、だから皆、その光を見てお願い事をしたり、
遠くにいても同じ星を見ているかもしれないと、知人の無事を祈ったりできるんですね。
自分も日記を書いてますが、最終章なんて想像しない・・・
悩みや愚痴もあります。でもいつか筆を置くとき、思うでしょうね、
「けっこう俺、がんばったな( ̄ー+ ̄)ニャ!」
そういう日記になったらいいなって思います。
誰かさんもそんなような思い、歌ってましたね。

http://www.youtube.com/watch?v=KIWM2HkBTI0

でも「マイペース」ってこともほんとはとても大切なこと、マラソンは走りきって価値があるし、
山は無事に降りて振り返るときにこそ、「また来いよ、お前が好きだ」と万遍の笑みを浮かべてくれます。
いつでも、無茶はいけません、ご自愛くださいね。

投稿: メシダでござんすよん! | 2012年7月 6日 (金) 02時15分

>うっちゃん様

 こちらも晴れたり曇ったり・
私の覚えている梅雨の感覚とは
ちょっと違うような・・ですね。
今日・というか昨日は蒸し暑い
・湿度の高い一日でした。多分
今日は・天気予報は午後から雨
と言っています。

 お義母様のこと・いろいろと
お気遣い、たいへんですね。私の
場合は実の親子でしたから貴方の
ような「ジレンマ」はありません
でしたけれど、その代わり私の親族
・妹たちとの間には多少ですけれど・
私にとっては多少なんていうものでは
なかったけれど・・ありました。
もう過去の事なので記憶は薄くなって
いますけれど・・・貴方の「書き込み
拝見していると、お義母さまがおられ
る施設、とてもいい介護をしておられ
るように思えます。安心してお任せ・で
いいのでは?
 経済(介護費用)のことでは、私の
母の介護期間中妹のところに行って
いた2年を含めて母の遺族年金を介護
に関係する費用にあてることにして
妹と一緒に(母の)預金通帳を管理
していました。母の死後多少の残高が
あり妹と折半、遺産相続?しましたが・・・

投稿: j.i | 2012年7月 6日 (金) 05時32分

メシダくん。
いつもコメントありがとう。
素敵な言葉 嬉しいです。
もし 最後だったら…
ダンナじゃない昔の思い出の中でムチャクチャ
美化されているカレ…かな(笑)
音信不通 消息不明です。
生きているのか、もう死んじゃったのかも?
なんて思うと 空想は膨らみますが会わないから幸せなんでしょう、きっと。

先日 ニュースで どこの都市だったかは忘れましたが 今話題の生活保護を受けている家族が
年収600万円以上もある公務員の中に何十人もいたので なんとかならないのかと確認したところ 
援助しているのは たったの一人きりだったということです。
残りの人は ローンがあるとか他県に住んでいるとかのもっともらしい理由で無理です という返事だったそうです。
公務員なら 介護を実際にやっている一杯一杯の私たちが知り得ない情報を
仕事柄知っているのでしょうが 普通の人は毎月たった数百円程度の補助を追加してもらうだけだって
書類だなんだってあっちこっちへ行かされます。
ローンだの遠距離だのだというのは今どきどこの家庭でもあることです。
本当に困っている家族には 福祉の窓口で 仕方のないことなんですよとか言って 長い事待たせておいて 
ホントずるいなぁ~と 思っていました。
日本の制度は知ったもん勝ち、申請しなければ何にもしてくれないんだって事 
元気なお年寄りや家族は全く知らないもんね。
それを知るのが一番困る時ってのは残酷ですよね。

子供の頃 大家族で育った私は 母をいじめてばかりいた意地悪ばあさんだった祖母が当時嫌いでしたが
それでも そんな祖母がったった一人で亡くなるって事はありませんでした。
家族や絆なんて 大地震の後でいっぱい報道されましたが それは自分自身の足跡なのかもしれません。
家族を手放した瞬間に始まる新しい家族。
それが結婚です。
永遠の愛を誓った(?)若い時は30年後・40年後の自分は見えません。
家族、親族その他もろもろに人間関係のしがらみもついてきます。
30年前は今の日本のような底辺に突き落とされるような未来は想像すら出来なかったし。
うちの娘たちのように 今の子供たちは
こんな時代で生きているから もっともっと
シビアな考え方をしています。

お気楽なのはもはや私の方で 困った時のブログと思って みんなに「こんな愚痴」まで背負ってもらってます。

メシダくんみたいな介護のプロの話も聞けるしね。ほんと ありがとうです。

投稿: うっちゃん | 2012年7月 6日 (金) 10時35分

JI様。
こんな時にいつもコメントを下さって 本当にありがとうございます。
優しいなぁ~と いつも感謝しています。

なるたけ 愚痴はやめようとは思っていますが
どこかへ発散しないことには…と
蓄積した「泣き言」を 書いてます。
ダンナは ホントは施設へ行ってきた後の私が
いつもより不機嫌だってことは わかっています。
微妙に言葉にトゲがあるんでしょう→↑↓
いろんな所にほんとはチクチク刺さってるみたい。
けれど 自分で行くとは言いません。
何にも知らない友人か「連れていかなくっていいの?」
「後悔するよ。」といいますが。

選択肢は自分で出来るオジサンです。
後悔するのも自分で選ぶ道だからと思います。
連れてきて辛いという選択肢は 想像しなかったけれど
義母と私たちのどっちが長生きするのかな~という選択肢も
最近は 考えるようになりました。

(u_u。) 

投稿: うっちゃん | 2012年7月 6日 (金) 10時51分

こんにちは、いつも楽しませて頂いてます。
うっちゃんさんのブログはいつも心が穏やかになります
載せられている写真にも、私の育った所と同じ空気があって、私にも懐かしかった
思い出の地は、直ぐに30年前に連れ戻してくれている様ですね。
以前にも書いたかもしれませんが、私も山や川でよく遊んでいたので、子供達の思い出の場面、
自分のことみたいに懐かしかったです。私も一度、育った場所に行ってみようかな・・・

投稿: tutatyan | 2012年7月 7日 (土) 11時34分

tutatyan様。
コメントありがとうございます。
30年っていっても 誰にでも笑いあり涙ありで
人それぞれ 
たくさんの素敵な思い出や 当時の生活が詰まっているんだと思います。
私の写真で なんか知ってる~的な情緒を味わってくださっているのなら 嬉しいです。(=^0^=)。

思い出は思い出としてしまっておくのも価値はありますが いつどんなことが起こるかも分からない年代ですからね。
生まれ育った場所を歩いてみたいっていう気持ち私もよーくわかります。
ここにお蔵があったのに~とか 大きな桜の木があったはず~とか 
今は 何にもなくなっていても思い出は蘇ってくるんですよね。 
そんな記憶の方が 新鮮かも…(笑)

投稿: うっちゃん | 2012年7月 7日 (土) 14時22分

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