8月6日 原爆の日
猛烈にっていう言葉でも まだ言い足りないくらい蒸し暑い朝。
もうすぐ ラジオ体操が始まる時間だよ。
まだ 朝露が残っていてもいいくらいの時間なのに モワァ~としたこの暑さ。
なんだか 息苦しいね。
蝉も思い出したように 鳴き始めました。 こんなに早く鳴かなくってもいいのにね~。
トイレ散歩のメグタと 外に飛び出した途端 生ぬるい風がピタッと止んで 汗がじっとりでてきます。 関東甲信越は猛暑に注意が 今日も出ています。
台風の風なんでしょうか?
四国では 大雨・洪水のニュースが流れています。
悪天候になるのは分かっていても どうしようもない、猛暑と大雨。
今日も 暑いんだろうなぁ。
少しでも涼しそうな ガラスの風鈴を 載せてみました。
風が吹いていないので 「カラン、カラン~」と 涼しげな音が聞こえないのが 残念です~。 視覚で…どうぞ。
今日8月6日は 広島に原子爆弾が投下された日です。
今から69年前の 午前8時15分。
その日 広島市では誰もが想像できない大惨劇が起こりました。
TVで 今年も 平和記念式典を見ました。
「黙祷~。」
の声に 私もテレビの前で ひとり祈りました。
2014年の日本人の60代以下の人は 今や「戦争を知らない子供たち」そのものです。
「戦争を知らない子供たち」という曲を ご存知でしょうか?
フォークソング全盛期の時代の 1970年代に日本中にリュックを背負って旅する若者がいっぱいいました。 そんな時に歌われていたのが「戦争を知らない子供たち」でした。
平和の歌として 私の心の片隅みに残っています。
朝 7時台のニュースでは10代の子供たちに 「今日は何の日?」とインタビューしている映像が流れていましたが ほとんどの子供たちが「?」とか「わからない」などと ごく普通に答えていました。
私の10代、20代の時は 戦後ほんの数十年でした。
今なら それが戦争が終わって ほんの少ししか時間が過ぎていないという事実を 感じる事が出来ますが たった十数年しか生きていない口先ばっかりが黄色い頭でっかちの子供だった私は 親や祖母などが実際に経験した「第2次世界大戦」は 教科書に載っている戦争として理解していたにすぎません。
戦争がかつてあった。
関ヶ原の戦いも日清戦争も第2次世界大戦も 全て年表に書かれている、同じ土俵に並べられていたのです。
現代社会の教科書には 第2次世界大戦として現わされていて 詳しいいきさつは載っていなかったし 授業でも今の子供たちが常識として知っている戦争での日本の行動はまだ規制されていたのか 社会の先生から教わったのかどうかすら記憶がおぼろげなんです。
まだ若かった自分の父が実際に20歳で戦争に駆り出されたという話や ニコニコ笑っていた母が女学校に入ったばかりで パラシュートの生地を縫わされた話など ぼんやりと聞いていました。
戦後はすごいスピードで復旧されたので 悲惨な戦争の傷跡は きっと子供の頃から自分のすぐ近くにあったにもかかわらず 何も見えず、見る気もなく、想像する力もなかったのです。 今はもういない父や母は もっとおしゃべりをしたかったのでしょうか?
今頃 思いつくなんて あ~あ、私ってダメですよね。
実際に 広島の原爆ドームを見たのは 20歳の時でした。
まじかに見た時は 怖かったです。
時間がその瞬間で止まっているような 原爆がどれだけすごい規模で広島の街を、人々を焼き尽くしたのか…。
戦争の怖さを 初めて目の当たりに見た気がしました。
私の20歳のあの日、8月6日。
あの体が冷たくなるような張りつめた気分になる記念館。
あの黒く焼け焦げた人影。
実際に亡くなった方や被ばくされた方の苦悩は 私には想像もできないんですが あれが原爆の衝撃なんだと 今でも 覚えています。
その翌年 長崎の平和の像も見に出掛けました。
8月6日の広島の原爆と8月9日の長崎の原爆は 違う種類の爆弾だったそうです。
市の図書館で原爆の事を書いた本も むさぼり読みました。
でも 当時は今みたいには 分かりやすい本は少なかったと思います。 ヾ(;□;)э
それに、私にとって 当時は広島も長崎も 距離があったと思います。
まして 家族の戦後などというのは 父がつらい記憶を持っているらしく ほとんど口にしなかったので 自分に子供が出来るまでは考える事もなく過ごしてしまいました。
親になるという事は いろいろ勉強しますよね。
他国の戦争の話も見えてきて 小説や映画やテレビのドキュメントなどで 見えない部分が見えるようになってきました。
やっぱり戦争は遠かったのです。
広島松井市長さんは 式典で
「絶対悪の 核のない世界を、武力でなく対話で」という事を話されていました。
それに対して 阿部首相は
「私は核兵器廃絶、世界平和の実現に力を惜しまない」と話しました。
この言葉は 核をなくしたい、平和を守りたいという被爆者の思いを 代表して世界に伝えているように聞こえますが 実際の阿部首相のここ最近の行動はこの言葉とは全然違う方向性です。
国民にじゃなく世界に向かって「私はこんなに頑張っています」と発信している気がします。でもね、「核兵器を日本はもともと持っていない国なんです。」よね。
まったく すり替えていますよね。
原爆イコール原発ではないけれど 3.11のように原子力発電所が事故に遭った場合 原子爆弾が落とされた時と同じくらいの大参事が起こりうる可能性が 今の日本や世界の原発を所有している国ではありえることを 日本人は身を持って経験してしまいました。
福島原発が3年半の長い年月 しっかりとした解決の方向性も見えないまま 放置されています。
原発避難を余儀なくされている方々の今後の保障問題も 少しも解決されていません。
福島原発では 放射能がまだ垂れ流しされています。 長い目で見ても元の通りに戻るというのは困難でしょう。
その上 福島原発を棚に上げて 他の原発を再稼働しようとしています。
ここで言う 世界平和ってなんなのでしょうか?
集団的自衛権は 阿部首相の言うように「世界平和の手段」であるとは いくら考えても思えませんが…。
どんなにキレイな言葉にすり替えても やっぱり松井市長さんの「絶対悪」は隠せません。
原爆の日に 被爆者の悲惨さを訴える事の出来る経験者が どんどん高齢になって来てあと10数年もしたら ひとりもいなくなるかもしれないのだそうです。
戦争の経験者も同じでしょう。
誰も戦争を知らなくなったら 頭の中で考える事しか出来なくなった時に 集団的自衛権は それを抑止する力が弱くなって当然の権利として 大きな力を発揮してしまうのでしょうか? 怖いです。
クリックすると大きくなります。↑
黒く見えるのは 烏(からす)です。 こんなにたくさんいると烏も逃げません。 烏会議でも開いているんでしょうかね。
動物たちは 相手が怖くても逃げないですね。 逃げたら負けなんです。
だから踏ん張れるところまで 見合って見合って頑張りますよ。
人間は どうでしょうか? 武器…は駄目ですよね。
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コメント
全世界で、唯一原子爆弾を投下された国なのに
その、体験者が後数年もすれば、居なくなって
しまうんですね。
「原爆の日」タダの記念日にはしたくなですね。
「集団的自衛権」って、「若者よ武器を手に取れ」
って言っている様に感じ取ってしまうのは
私だけでしょうか?
投稿: 中年ライダー | 2014年8月 7日 (木) 17時52分
原爆に被爆された方、それを支える家族の方にしてみれば
(私たちは戦争なんて関係ないとつい思ってしまいがちですが)
ずっと1945年から続いていて終わっていないんだろうと思います。
きっと福島原発の被災者の方は地元にいても未だに帰る事の
出来ない方々も同じなのではないかと思います。
2つとも世界で唯一の被害者の助けてという声が 政治家には届かないんですよね。
国民の声を聞かない国の代表なんて…おかしい。
そう思っていても世界中がどんどん歪んでいっている気がします。
私も大丈夫!大丈夫!と若者に囁きながら手渡すのはあめ玉からいつの間にか武器に…
つまり振り込め詐欺をしている確信犯にもなんだか似ているなぁと思います。
投稿: うっちゃん | 2014年8月 7日 (木) 21時37分
戦争を知らない子供たち・・・
自分達はなんて幸せな時代に生まれたのでしょうか。
楽器が持ちたくても、銃しか持てない若者がいます。
歌を歌いたくても爆音にかき消され、耳には悲鳴しか残せない若者がいます。
今日現在の地球上での話です。
先日、高円寺で「ひめゆりは散っても」というフリーアナウンサーによる朗読劇が行われました。
現代の女子高生がタイムスリップして、ひめゆり部隊に動員されてしまうストーリー、
沖縄戦の史実ということから、その各所のイメージ回想シーンの演出ということで、
自分らは随所で三線を弾かせてもらいました。
降伏しようとするものなら味方でも殺す、
動けない重傷患者は薬殺する、
逃げ場が無くなったら集団自殺・・・
野戦病院とは名ばかり、もはや、看護でも医療でもない悪魔の所業、
通常の精神ではあり得ない事が、「戦争」の2文字によって通常化されてしまう。
それを目の当たりにしてしまう劇中で沖縄民謡を演奏するのは気が重かったです。
うっちゃんも確か8月生まれだったかな?
自分もあの日航機の事故と重なってるので、
8月の6日〜15日は誕生日どころの気分ではないんですね。
でも、武器を持たないことをなぜ誇りに思えないのか・・・
明治維新から始まる近代日本史はずっと戦争の歴史でした。
もうこれは昭和から平成を境に今後いっさい現れないでほしい・・・
試験には戦争の悲惨さ・・・無意味さを学ばせる問題を、
どんなに強い武器を持ってしても最後は悲しみしか残せないという事実を「答え」として書かせるくらいの扱いをしてほしいと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=0P3tYUDdVUY
投稿: メシダどぇ〜す | 2014年8月 7日 (木) 23時41分
子供の頃は8月は夏休みで損した~って思っていたんですけど
日本の歴史の中では8月は重い月だったと
年々感じますね。
それにしても メシダ君すごい。
三線の調べは沖縄の心みたいな音色ですね。
ひめゆりを代表とする戦中・後から日本返還、アメリカ軍駐在など
理不尽な経験を余儀なくされてきた沖縄県民の声も
相変わらず政府には届いていません。
戦後アメリカにはNOと言えない歴史をずっと積み重ねてきたから
沖縄の方々には日本のツケをずっと背負わせていますね。
集団的自衛権が決まってしまったら 自国で国を守るという事になるんだから
今いるアメリカ軍は撤退するんでしょうか?
自衛隊が沖縄を守るの?
肝心な部分がわからなくて 不安だよね。
投稿: うっちゃん | 2014年8月 8日 (金) 13時48分
こんばんは!
ご存じかどうか・・・。
湾岸戦争のことです。
当時、イラクと米欧を中心とする多国籍軍との間で戦われましたが、日本は憲法の歯止めもあり、戦いそのものに参加することはなく130億ドルに及ぶ金銭的貢献に終始した。
結果、この支援は全く感謝されることはなく、逆に「日本は血も汗も流さない国」と世界中から馬鹿にされた上に、クエートの公式な謝意表明の中には日本の国名はなかったのです。
これは、実に残念な恥ずかしい経験でした。
最後の最後に、日本はようやく海上自衛隊の掃海隊を派遣しました。
彼らはペルシャ湾の掃海という任務を無事完遂して帰国しましたが、本来凱旋帰国であるべき彼らの帰港を心ない人々が汚い旗を掲げて汚したのは忘れ得ない記憶です。
今、尖閣諸島を海上保安庁が命がけで護っていることを貴方は知ってますか?
集団的自衛権?
私は遅いくらいだと思ってますよ。
投稿: FUJIKAZE | 2014年8月 9日 (土) 23時31分
コメントありがとうございます。
実際に自衛隊で活動している方々から見れば私などがこんな意見を載せる事は
内情も知らないでと腹立たしい事と思います。
自衛隊の隊員さん達はしっかりと働いてくださっていると思っています。
でも世界中のあちこちで一発触発のような事態が起こっています。
日本の新聞やTVなどの情報は たぶん実際の1割も報道されていないでしょうから
ごく普通の母親である女性達はたった5分程度の映像とコメントで
世の中のほんの一部分を見て理解させられている訳ですから
どうしても不安の方が先に立ってしまいます。
尖閣諸島の映像は見たことがあります。
中国が日本の領海だけでなくアジアの他国の船に船体をぶつけている映像も見ました。
だけど私個人としては やっぱり心配ですし嫌です。
投稿: うっちゃん | 2014年8月10日 (日) 00時24分