書籍・雑誌

2012年1月19日 (木)

盗まれた記憶の…

 世界の博物館を紹介する番組が 偶然映し出した映像は ドイツのベルリンにある
ペルガモン博物館。
 「あっ、この名前聞いたことある~。」
と、思わずパソコンの画面から TVの画面へ。

 「なんか ここ知ってるし~。」

 もちろん(えばって言ってもしょうがないんだけれど)、私はドイツに行ったこともありません。 なので ペルガモン博物館がドイツの博物館だったと 知っていただけで どんな物が展示されているのかなんて その時まで頭の片隅にも 思い浮かべる事すらありませんでした。
ところがですよ。
私は 目の前の「ペルガモン博物館のイシュタール門」の映像を しっかりと 記憶していました。

なぜ? 不思議でしょう? 
思い当たる一冊の本がありました。

 ラルフ・イーザウ著 酒寄進一訳
「盗まれた記憶の博物館 上・下巻」 
という本です。

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 「でも あれは児童書で 挿絵とか写真とかが載っていたっけ?」

それに この本を読んだのは もうずいぶん前のことですし まだ 穂高町だった頃の町の図書館で借りて読んだ記憶があります。
あれが本当に実際のペルガモン博物館の話だったのかどうかも わからない…。
だけど 目の前の青い煉瓦の門は どう考えてもそうに違いないと思えてならないのです。

 それから 気になって気になって wwww 。
今は とっても便利な「BOOK OFF」のオンラインがあるじゃない 
 「探してみよう!」
そして 簡単に見つかりました。
この2冊。 中古本だからね~。 

なんと分厚くて読み応えたっぷりなのに2冊で500円。 

ほんと ラッキー

こんなにいい本が! こんなに安く手に入った\(^^@)/
思いついたら「大吉」だよ。

 
今は また夢中で読んでます。 あと少しで 読み終わるからね。
前にも読んだけど いい本は何回読んでも 面白い(-^〇^-)。


 結局 本の中には さし絵は一枚も描かれてはいませんでした。
けれども 作者の文章表現が上手なので イシュタール門や壁画のイメージが
まるで ライオンやシリシュといわれる獣の体に鳥の足、蛇の尾の描かれている実際の博物館の本物の壁画を 本で感じたイメージと少しの違和感もなく 感じ取れるなんて
驚きです。


本は 興味があって時間があたら読んでみてくださいね。
児童文学 あなどるなかれ です。
ずっと ハラハラ ドキドキ ワクワクしますよ。
少年少女は こんな本をいっぱい読んで大人になって欲しいもんです。


そして 
これは YouTubeから いただいた 実際のペルガモン博物館の映像です。

 http://youtu.be/VmXVqomoXYs


 ドイツは ロマンティック街道に行きたいなぁとか 妹が話していたけれど
私は ベルリンのペルガモン博物館に いま 無性に行ってみたいです。

 ドイツは やっぱ 遠いよね~。

行きたいと思わなくっちゃ行けないもんね。 しばらく夢見ていようっと。

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2011年7月 4日 (月)

NO. 6 #9

  この本は 知っていますか?
本のジャンルで言ったら 児童文学の部類に入るので 中学生や高校生なら
 「あっ、知ってる。 面白いよね。」
と 笑ってくれるかな?

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 NO.6 #9(ナンバー・シックス 第9巻) あさのあつこ

今回の第9巻が 完結編です。
初めて この本の第1巻が 発行されたのは 2003年だそうです。

あさのあつこさんの 「バッテリー」という本を 下の娘が 学校の図書館で借りてきたのは 多分 中学生の頃だったと 思います。
爽やかな野球少年たちの話で 娘が読んだその後で わたしも
 「一週間以内 で読み終わるから 読ませて~返すの待ってて。」
と 6巻と長編でしたが 一気に読める面白さでした。 
それから わたしはずっと あさのあつこさんのファンです。

 その後に 娘が「面白い本 発見!」と 読み始めたのが この「NO.6」でした。
この本が出た頃は 「ハリー・ポッター」「ダレンシャン」みたいな 外国の分厚い児童文学がブームで 1年に1冊 出版されるの連続ものが流行っていました。
この 本も同じように 毎年待たされて待たされて ついに9年目で 今回 完結したのです。
話は2013年の設定で始まりますから、第1巻では まだ10年も先のお話ですが
今年は もう20011年ですから お話に年代が追いついてしまいました。
でも、近未来小説ですからね。 
現実の世界の2013年には このNO.6の世界ほどの 都市は成り得ませんが…。
NO.6というのは 未来都市の名前です。
その都市で 起こる信じられない事件のお話です。
主人公の12歳の紫苑(シオン)、ネズミと呼ばれる美しい少年、イヌカシ、沙布など
登場人物が魅力的。
 
今どきの児童書は ハラハラ、ソワソワの冒険物・魔法使い物・妖精物・妖怪 などが ほとんどですが 
この「NO.6」は それらとは またちょっと違う気がします。
しいていえば なんだろうなぁ。 
非現実的だけれど 主人公たちの生きている世界は 光と影があってとっても怖い。
どうなるの? 頑張れ! と思いながら 最終巻へ。
コミック本に 近いのか?


 それで この7月7日から TVアニメになって放送されるそうです。
それに併せて コミック本も 発売されたみたいです。
原作を 越えられるか? 
真夜中だから 録画して 多分こっそり アニメも見てみようと思ってる。
イメージ通りだったら きっと 毎回録画しちゃうかも。

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2011年6月19日 (日)

永遠の0

 5月の済州島のついでに 娘の顔を見に 埼玉へ…。
その時に 娘から 「時間が空いたら 読んでネ。」と 手渡された1冊の本。

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 それがこの本。
 百田 尚樹 著 「永遠の0(ゼロ)」

 本当はこの本の存在は知っていました。
以前 多分NHKの「ブックレビュー」という番組で 某テレビ番組の「アタック、チャンス~!」の児玉清さんが 「この本は 泣けました。」と話しているのを 見ていましたから。

 「0」というのは 誰でもすぐ納得できる 「零戦」の特攻の話です。
でも ただの戦記物ではありません。
戦後60数年経った現在 特攻で祖父をなくした孫が 昭和17年~20年終戦1週間前の特攻に出撃していった当時を 調べ始めます。

 特攻という史上最悪の作戦に 駆り出されていったのは 今は 受験戦争で苦しんでいる18~20代前半の 若者たちでした。
人生のなんたるかも 知らずに戦地へとかりだされていったのでしょう。

 恥ずかしい話ですが 「戦争」という言葉に拒否反応をもつ父と家族に 育てられたせいか 私は 映画でもドラマでも戦争ものは嫌だなぁと思って 遠ざかって過ごしていました。
私の父も この宮部久蔵さんとは同年代です。
たしか5歳くらい 若かった筈で 特攻ではありませんでしたが 子供の頃おぼろげに 南方に行ったということを 聞いたことがありました。
 けれども 私はこの父についに 戦争の話を 詳しく聞いてあげることもなく 逝かせてしまいました。
 「永遠の0」を読んで 父も話したくないんじゃあなくて 話せなかったんだと 思い至る節がありました。 
辛い記憶だったのでしょう。 ちゃんと聞いておいてあげればよかったと思っても 後の祭りですよね。
 
 学校で習ったはずの「第2次世界大戦は どうして起こってしまったのか?」
という日本人の本質を表す大事な疑問を 時代と共にさらりと 流してしまっていました。
私たちの子供時代の 教科書には いったい何が書かれていて どのように教わったのか…。
思い出そうと思っても 残念ながら ちっとも 記憶にありません。
社会科といわれる教科も 過去の歴史と現代社会は区別されていていたように思います。
ましてや 日露戦争、第1次世界大戦、第2次世界大戦という単語を習っただけで
戦争は 日本が侵略者の立場だったと 今では当たり前に誰でもが知っている事実を 実感として理解したのは ずいぶん後のことで 自分で図書館に通い始めて 読んだ本の中から得た知識でした。
韓国の南北戦争やベトナム戦争など 新聞などあまり興味のない10代の小娘が 時代の流行作家として読んだ 松本清張森村誠一
そんな普通の小説の中に 混ざって昭和という時代の大きな矛盾がいっぱい書かれていました。
  
 「天皇陛下のため、日本のため、家族のため」 日本国民の愛国心で…。
そんな大義名分が連ねられた時代があったんだと いう事は 今の日本人には
過去の歴史の一部分で 昨日・今日・明日が繋がっていて 歴史は作られているという実感は持てません。 
それは何故かというと 多分 細切れの教育を受けていたからではないのかと 思います。

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 さて、本題へ。
祖父 宮部久蔵の 特攻時代を知っている老人たちを訪ね歩く姉弟。
一度も会ったこともない祖父の 臆病者と噂されるほど「生きて帰って 妻と娘に会いたい」という信念に 何かしら影響されて 今を生かされている かつての仲間たちの言葉は 重くせつない。
その多くの生き残った戦友たちは 戦争を家族に語っていないのですね。
語りたくても語れない戦争の悲惨さと時代背景があったのです。

 当時 20代の若者たちは あの戦争をどう考えていたのか?
 
 私も あの時代の若者たちは 「そうするしかなかった、他に選択肢はなかった」のだと 思います。
戦争は軍にとっての 国民という交代兵は 「1円50銭の赤紙代でいくらでも徴兵できるが 飛行機は交代がない」と言って 人間の爆弾カミカゼ特攻隊を 考え出します。
ナチスは ユダヤ人を人間として扱わないで世界の敵になりました。 
でも 自国の国民を 将来のある若者を兵器として 使い捨てにする戦略は考えませんでした。 片道切符しか持たされない戦地の 日本兵。
日本国内で 夫を兄弟を子供を出征させて 帰りを待ちわびていたほとんどの家族は そんな軍隊の内情も 負け戦ということも知らされずに 「お国のため」に我慢の日々をおくっていたのですよね。
 「もう戦いは止めよう。」と言える勇者が 日本の軍隊のエリートの中にはいなかったのが 悲劇の広島や長崎にもつながってしまったのだと 思います。
 血気盛んな若者達は 19年には もうすでに「日本は負ける」と分かっていた首脳陣の引き際の悪さに 死ななくてもいい命を 捨て駒にされたのです。


 本文の中に「真珠湾攻撃の時 宣戦布告の手交が遅れて 卑怯な奇襲になってしまったのは ワシントン駐米大使館員の怠慢だった」という話があります。
その駐在員は パーティーで遊んでいたという事実です。
海軍の指揮官は 常に安全な場所にいて 実践には無理難題の作戦を指示し
その責任をその当時の高級官僚は 誰一人として取らされていないという事実です。
 本文の中では (2006年に初刊された本ですから)今の時代の 官僚制度と少しも変わらないと書かれています。

 私も 一緒に 怒りと涙とため息が 同時に出ました。


 そして この本の官僚の在り方は 2010年3月11日の 東日本大地震の後に起こった「福島原発事故」の東電の上位人の対応そのもののような気がします。
 たった一人で乗り込んだ菅総理は 主人公の宮部久蔵みたいに結局は 時代に
押しつぶされてしまいそうですし。

汚いものは 隠す。
営利のないものは切り裂く。 日本はやっぱりこんな大物に牛耳られている国らしい。
虚しくて 涙がでます。 
戦争の時だって命を張って 頑張ったのは 国民で 戦後の復旧だって
蟻のように 大地に踏ん張って 歯を食いしばってくれたのは ちっぽけな国民だったはずです。
 「お前ら 新聞社が戦争を煽り 戦後は戦争に行って命をはって戦った奴を戦犯にした」

 これも今のマスコミと全く同じです。
たくさんの人に訴える力のあるマスコミは 営利で 揺れ動いてはいけないと思います。
言葉は優しくもなるし 暴力にもなるのだから。

 「原発」の真実も 大きな力で闇に消されることのないようにしてもらいたい…
この本を読みながら そんなことまで考えてしまいました。

戦争は つい この間のことで 自分の父親がこの地獄を見ていたんだと
今頃気づく浅はかなわたしです~。 

今 この時期に この本を読んでよかったです。 久しぶりにいろいろ考えさせられた本でした。

  
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2010年11月10日 (水)

「熊の場所」

 いかん! いかん!

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 この本は ちょうど 去勢後の「メグタ」が エリザベスカラーで 「ボク、どうなちゃったの?」って 叫んでる気分。
 なんだ! この舞城王太郎って? 39歳のエロ作家じゃん。

 やよいちゃん、みたいな若い女の子が 読む本じゃないと オバサンだから 本気で思いました。 講談社のメフィスト賞作家だかなんだか 知らないけれど こんな妄想に 共感しちゃあ 絶対だめだよ。

 3篇とも こんなの絶対ありえない。 
「逃げない」っていうのは 大切だけど 根本的にずれてる。 まず、普通の人間なら この本の父親の熊の話を聞いて 「馬鹿言ってんじゃないよ!」って 言うでしょう。

 もし仮に うちの近所でも 今年はいっぱい 熊が出没しています。 でも、熊に出会って 逃げたからと言って 馬鹿にしたり臆病者だと思う人は まず100パーセントいないでしょう。
 出会ったとしても 「よく逃げられたわね~。なんともなくて 良かったね。」と 褒められる方が多いでしょうね。
まして、恐怖に打ち勝つために 熊のいる場所に挑んでいくっていうのは 愚の絶頂です。
運よく物語では 熊に勝つことが出来たけれど わざわざ熊の所に出掛けていってやっつけなくても いいし 別に要らない殺生は必要ないわけだし。

 猫の尻尾の話の部分だって 変質的で解せないし、 ましてやバッド男なんて ありえない。
ピコーンって内容は 女を馬鹿にするんじゃないよって思ってしまうような内容なんだけど昨日 「尾崎豊」の番組を見ていたら この舞城王太郎って人、「尾崎」ファンなんじゃないだろうか~?って なぜか思ってしまいました。

 

 全然 関係ないんだけれど 今日 「なちこさんのブログ」で とっても いい曲を 見つけてしまいました。

 「高橋 優」さんの「この素晴らしき日常っていう曲ですよ。 聴いてみてね。

( なちこさんのブログでは YouTubuの 音楽が付けられていたのですが 私にはそれは無理なので ごめんなさい。 聴きたい方は ご自分で探してね。)

 
 なぜ ここに この曲を 書いたのかと言うと 
 くだらない小説内の(バット男)の若者が同じように 「人生ってなんだろう」ってもがくのです。 この曲の優さんの歌詞も 共通点があるのですね。 
 どうせもがくのなら こういう俗悪小説をヒントには してほしくないです。
これは 今 人気作家らしいけれど 10代や20代の 若者たちが読むことに 無責任な内容だと思うのです。
 ホラーでも スリラーでもアクションでも 作品になった時は 勝手に一人歩きしていくものでしょう?
 
 厳しい言い方だけど 今までに やよいちゃんに紹介してもらった沢山の素敵な本の中で 今回が一番 駄作だと 思いました。 ちょっと 残念。
 図書館や本屋さんに溢れるほどの 本が並んでいても あまりにも多すぎていい本が 選べない。 何とか大賞やら 文化人お奨めの1冊などという小説でも 売れればなんでも有りっていうのは どんなものでしょうね?

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2010年11月 8日 (月)

黄落 こうらく

 6日、土曜日。
ずい分久しぶりに 図書館に出掛けました。 
最後に行ったのが 借りていた本を返しに行った時で 4月の終わりでした。 もう あれから 7ヶ月ぶりという事になる。 義母が来てからは 本どころではなかった。 DVDもCDも 落ち着いて聴いている 心の余裕がなかったのです。
 
 以前は 暇が出来ると 図書館に出掛けるのが好きでした。
 クラシックのCDは 地元のCDショップに出掛けるよりも 図書館で探した方が外れないと 思っている。 なので 有名ピアニストや 交響楽団などがずらりと並んでいる棚の前で 
 「今日は何を 借りようかなぁ~?」と なんともお気楽に 考え込んでいる時間が好きでした。
 それに 当時は 東京で 某古本屋さんのバイトをしていた娘が 「今は○○が面白いよ。」などと アドバイスのメールを 時々入れてくれたので それらの本も 一緒に借りて読んだりしていました。 好きな音楽に のんびりと読書。 なんと 贅沢な時間だったことか…。

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 先日 コメントで紹介していただいた
 「黄落」 佐江衆一 著  
 「熊の場所」 舞城王太郎 著 を 探してみました。

 沢山の本棚の中に 佐江さんの本が数冊、舞城さんの本の棚にも4~5冊並んでいて 私にはどちらの作家も始めて聞く名前だったので 「面白かったら他の作品も 読んでみよう。」と 思いました。

 この土日で 「黄落」を 読み終えました。

 JIさんが、コメントで 介護の参考になるかも…と 紹介してくれました。
 小説とはいえ これはまさに ドキュメンタリーです。 
切実な 在宅介護の心理が 描かれていました。 
私が 毎日 切々と感じているやるせない気持ち、苛立ち。 同じだと感じてしまう部分が多かったです。
 主人公トモアキが 実の両親に抱く愛情と 同時に常に感じてしまう 正反対の嫌悪感。
実の息子で 愛情いっぱいに育てられた家庭であっても やっぱり 介護は我が家と同じように 家族を崩壊してしまうものなのだとしたら 人間の求めている長寿っていったいなんなんだろうな~?
もっとも、80代後半から90代の両親が 同時に介護状態になるというのは もの凄いストレスだろうと思います。 小説でなくても 実際に同じ状態で 介護していらっしゃる家族だって 広い世の中には 数多くいるのかもしれない。 
 高齢による痴呆症は 90歳でも 精神的にはアルツハイマー症の痴呆とは 全然違うんだっていう事も なんとなく理解できた気がします。 小説内のお母さんは アルツハイマーっぽい設定でしたね。 けれど アルツハイマーの人は あんな風に自分の最後を決定できないでしょうけど。 

それにしても 「死」という 大きなものは 壮絶なものだ。

 49歳で亡くなった私の母を 当時は「早すぎる死」に 可哀想だと思っていましたが 私達家族をたったの8日間で 自由に開放してくれた母に この年齢になって感謝すら感じています。
 3年前に肺癌で 逝った父も 我慢強い人だった。 実家の姉は、風呂で倒れた父の看護で大変だったろうけれど うちの義母の悪夢のような現状を思ったら あらゆる面で穏やかに 残される娘達の事を思って 静かに逝ってくれたと思う。
 今頃になって 本当の介護の現実を知って ますます 本当に 父母には感謝しています。 私も 父や母のように 家族に極力 迷惑をかけないで 穏やかに人生をまっとうできたら と 思いますが、その時になって見なくては 分からないのが真実なのでしょう。
 やっぱり、介護の終点は 看取るという場所に行き着くしか解決方法は ないんだという事なんですよね。 当たり前のことなんだけど…。


  


 「黄落」の中での 妻の気持ちや会話は、ちょっと あまりにも聖人っぽかったけれど、作者が「トモアキ」はダンナ目線で描き 実際に介護を頑張ってくれている妻を こうであって欲しいとの理想像も含めて 描いているのかもしれないと想像したら 理解できる気がした。 妻というのは 本当に微妙な立場です。 血縁がないので 義母の通帳すら私には直接 作ることは出来ないのです。 でも、雑用は妻がやる。 何の利益もないのにですよ。

 我が家だって ダンナは私の実家の介護には ほとんど無縁で ただ 私が実家に出かける事を許すみたいな感じで それが協力したと 思い込んでいる節がありました。 
 義母の介護は この7ヶ月間で 私は義母が私と関わった 30年間分よりも沢山の 重さがあると思っていますが アルツハイマーの義母には そんなことは違う世界の事なのだから 理解できるはずもないのです。
 「黄落」の中の父母よりも もっと 「事実は小説よりも奇なり」 なもので 現実はもっと厳しいのかも しれません。
 でも、私は 例え小説でも 児童文学の方が 明るい未来が見えて好きです。

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 サワさん。 いつも 聞きたいなぁって思っている事を しっかり書いて下さって ありがとうございます。  沢山のパワーもらってますよ。 再放送 見てみます。   
 

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